どうして虚無感があるのだろう。
どうして喪失感があるのだろう。
どうして、知らない面影を世界の中で捜して、見つけ出せず絶望するのだろう。
どうして、知らない筈の声が聞こえた気がして、知らない筈の名を呼ぶのだろう。
貴方には姉弟が居たのよ、と少しだけ悲しそうに母親は口にした。
瞬間、物心つく頃から抱いていた不思議な感覚が全て勘違いではないのだとレンは知ったのだ。
そうして問う。
「その子は、僕と双子だったの?」
両親は酷く驚いて言葉を詰まらせた。どういう経緯で大事な魂の片割れが離れてしまったのか、結局聞けず終いだった。
魂の端できっと繋がっているのだろう、曖昧な感覚を口にしたとして頭がおかしいと思われるに違いない。
レンは町の中でも聡い子であったからもう二度と自分の片割れのことを両親に聞く真似はしなかった。
哀しいのは自分だけではないのだと、話を続けようとして泣き崩れた母を見てしまっては諦めるしかなかった。
声は、残像は、面影は、頭から消えない。
双子というのなら自分とよく似ているのだろうかとレンは思う。
透ける金の髪に南国の海に似た碧の瞳なのだろうか。けれどきっと女子であるのだから愛らしいのだろう。
きっちりを結わえ込んでいた髪の毛を下ろしてレンはふ、と笑う。
鏡を覗き込んでもそれは自分であって遠く離れた片割れではない。しかし残像は追える気がしたのだ。
(―君はどんな風に笑うんだろう)
鏡に手を這わせれば追うように鏡像も動く。その隙間から覗く瞳は自分のものかと思えるほどに何かを渇望しているように見えた。
きっと自分は心の端に感じる存在を確かめたいのだ。
ずっとずっと、分かる、その―。
***
暗く湿った空間で一つ滴った雫が落ちる音で少女は目を覚ます。暗闇の中で柔らかな金糸が肩から滑り落ちた。
どうやら少しの間眠っていたらしい。
まだ完全に眠気の取れない瞳をこすって薄闇の中を見回す。遠く岩場の隙間から外の陽光が差し込み、一点の岩場を照らしていた。小さな日溜まりだった。
「…………」
少女はおずおずとささやかな日溜まりまで歩み寄ると暖かさを確かめるように手をかざす。
細く陽に触れていない少女の肌は白い。
陽光に溶けて少女の髪は蜜色に艶めき、そろりと窺うように動いた瞳は柔らかな碧を称えている。
岩場に紛れるようにして、しかしそれとは違う何かが少女の視線の先には存在していた。岩のように固い肌、今は寝ているのだろう。開かれぬ瞼の奥には鋭く闇にも光る金の瞳が存在する。
この地にあって、この地を支え、時に災厄を斎す、守り神にして破壊神と呼ばれる竜の姿のそれ。
否、これは間違いなく神世に生き取り残された竜なのだ。一度暴れ出してしまえば手が付けられず、この地方一帯は火の海に飲まれるだろう。
竜にとって人間など脆弱でしかない。取って足らぬ存在だ。
いとも容易く築いてきた営みなど灰燼とされてしまう。しかし人間が唯一対抗する術を持っていたのだとしたら、声だった。
音を紡ぐ、声。
誰でも良いわけではなく竜を鎮めることの出来る歌声の持ち主が、暗く凡そ人が住み着かぬ岩場に形だけ誂えられた祠に住み、竜の住まう地下空洞と祠を行き来し過ごす。
今は少女がそれだった。あえかな音を立てて繊細な髪飾りが揺れる。祠から外に続く扉は内側から開けることは適わず、定期的に食料と必要な日用品が届けられる。
言い換えれば彼女一人が一生を捧げ、この地は保たれている。竜の存在は住まう地に豊饒を約束するらしい。
同時に背負う危険性を考えれば当たり前のことなのかも知れなかった。
少女は知らない。外がどのような場所なのか。与えられた柔らかな布で出来たワンピースの裾を翻して、僅かな陽光の下でくすくすと笑う。
その時ふと大きな岩が動いた。違う寝ていたはずの竜が目覚めたのだ。
何が楽しいとと言うように鋭い金の瞳が少女を見据える。油断すれば一瞬で少女の華奢な身体は引き裂かれてしまうだろう。
しかし少女に物怖じする気配はない。
「今日は、晴れなの。晴れの歌を歌ってあげる」
歌は気付かないうちに覚えた。色々な所から聞こえたようにも思えるし、夢を見ている間に覚えた歌もある。
少女の柔らかな唇が紡いだのはそんな歌の一つだ。
夢の中で少女は、少年になる。色々な人間から名を呼ばれる。レンという名だったと思う。
自分と良く似た少年は笑って答え、日溜まりの中へと元気に駆けてゆくのだ。
そういえば自分の前に此処で歌を歌っていた誰かはどんな人間だったのだろう。
役目は新しく鎮める声を持つ人間が生まれるか、竜の怒りに触れて殺されるかでしか終わらない。
生まれて間もない少女が祠に入れられたということは、成長させるまで待つ時間は与えられなかったという事実を浮かび上がらせる。
きっとその人は死んでしまったのだ。怒りに触れたか、この大きな存在に飽きられて。
「……うん、気に入ってくれたのね」
歌を終えた少女がぱたりと大人しくなった竜の様子を見て満足そうに笑む。
夢を見るせいか。外を知らぬ少女は誰かと精神を端で共有するような感覚で色々な歌を覚えていく。
事実上幽閉されていながら、閉塞されぬ自由さと伸びやかで可憐な声は、竜の好みのようだった。
少女はまた眠ってしまった幼い頃からずっと共に過ごす存在を小さな手で一撫ですると、軽やかな足取りで祠に続く形だけの階段を上っていく。
今日は少女も機嫌が良い。
先程の微睡みの中で、夢で繋がる誰かの顔が鏡越しとはいえ見れた。それは少女の顔に良く似ていた。
「レン、」
夢で呼ばれる名を呼ぶ。幼い頃に人と隔絶された少女は言葉を良く知っている。偏に夢によって外界に繋がっている精神のおかげかも知れなかった。
「私は………リンだよ」
優しく教え込むようにして少女は告げる。少女は夢の存在が現実にいることを知らない。
ただ夢で少年として存在する自分に小さな秘密を告げるように呟いた。
***
夕空に雲が急速に広がっていく。夕立だと友人の誰かが言い、散り散りに家に帰っていく友人達を尻目にレンは立ち止まった。声が聞こえた。
「……ああ、」
泣きそうになる。この空は自分と良く似ていた。
勢いづいた雨粒が地面を叩く。小さな悲鳴を上げて誰もが駆けていく。雨宿りをする者、家に入る者。それぞれだったがレンは路地の真ん中で立ち尽くしたまま雨に打たれた。
雨がレンの金髪を濡らし服を濡らしていく。しかし頬を伝う水気は雨だけではなかった。
「リン。僕は、レンだよ。………此処に、居るよ」
遠く分けられ隔てられ、魂が繋がっていることをレンは知っている。
そして片割れである少女がレンの存在を夢の世界で感じ取っていることも知っている。
少女が夢想と思って見るレンの夢は、厳密に言えば繋がりあった魂が意識を共有することで生まれる現実だ。
「……君と一緒の世界に居るんだよ」
そっと胸に手を当てれば雨で冷えた肌に鼓動が脈打つ一定の音が伝わる。
夢ではない現実を少女に伝える術が分からず、雨と一緒に混ざり落ちた涙は竜が恵を与える土地に染み込んだ。
- end -