崩壊は静寂を引き連れ忍び寄る






世界はどうあるべきか。
世界はどのような形であったのか。
今の世界の在り方は何であるのか。
大きな歪みを内包した世界に、永遠の繁栄は―――。

数冊の豪奢な装丁の本を脇に抱え直し、鬱陶しげに顔に落ちてきた髪を払って学士である男は溜息を吐いた。
目の前の書架にはこれ以上詰める隙間がない程にぎっしりと本が詰められている。一定の法則によって並んでいる本の背表紙は、しっかりしているものから日に焼け褪せ、あるいは掠れて半分以上読み取れないものもあった。
少し黴臭さの混じった独特の空気を吸い込むと棚にある一冊に迷わず手を掛ける。
此処にあるのは世界の在り方を帝国が”その通りである”と認定した資料のみ。
裏返せば、歴史の裏が書かれた蔵書は限られた人間のみ目を触れることが出来る奥深くに隠されている。
この世界の繁栄と豊穣はこの地に降り立った一つの奇跡によってもたらされたもの。それは”竜”と呼ばれ、選ばれたこの地に住まう人々は彼の存在のために、感謝と祈りを捧げるため、歌を捧げた。
それが歌姫の始まりだというのが世の中の通説である。
子供の頃から繰り返し聞かされる話は刷り込み効果を持ち、誰も世界の在り方を問うことはない。
上手いのは選民意識さえ植え付けるその手法だ。
自分たちは”竜”と呼ばれる神に”選ばれた”という意識を与え、歌姫はその”竜”のために存在する名誉ある存在だと予め定義づけてしまえば、それに異を唱えるものは全て異端と排除される。
全く上手い具合に思想は歪められている。世界の在り方を問うなど無駄なことでしかないのだと最初から与えられる答えに異を唱えた時、住む世界は、周りの人間は恐るべき早さで牙を剥く。
「……まこと、全てが歪んでいるのだな」
溜息と一緒に吐き出した言葉は静けさが支配する部屋には大きかった。
学士は知っている。歪みを伴ったこの世界で、植え付けられた世界構造以外を口にすれば、そしてそれが事実に近いものであればあるほど迅速に危険因子は排除されていく。辿り着いた思想と共に闇に葬られる。
つと脇に抱えていた本の、脇腹に触れている一冊に学士の長い指が触れた。その一冊のみ装丁がお粗末で角が潰れている。
日に褪せて黄ばんでしまったページにびっしりと隙間無く書き込まれた文字は学士の祖父のものだ。
走り書きにしては達筆だと苦笑せざるを得ないそれは、祖父の生きた証明であり、祖父を抹消した世界への最後の抵抗に近い。
色々なものが処分されていった中、これだけは難を免れたのだ。それは祖父の最後の機転であり託された意志でもある。
世界はどのようにあるのか。
教義による世界への認識との擦れが生じさせる危うさと、妄信的な翼竜信仰。それは世界の歪みと同様に住人に歪みを持たせ、さもそれが普通であると認識させるのだ。均衡が徐々に失われつつある世界で人々は仮の安寧が続くものと疑いもしない。
学士はつと視線を持ち上げる。きっと自分もまた何もなければ疑いもしなかっただろう。
肩身の狭い思いをしながら、それでも笑っていた母の言葉さえなければ。祖父の残した意志がなければ。

”――良い? これは口にしては駄目なことだけれど。世界に絶対はないのよ。約束された豊かさなどないの”

翼竜信仰が子供向けに描かれた本の挿絵を見つめながら、ぽつりと呟かれた言葉には痛みが滲んでいた。
何故そのようなことを母が言うのかと振り仰いだ先、母の表情から「何故」と口にするのは躊躇われ、学士はその後、たった一度だけ漏らされた言葉の意味を探すように色んな文献を読み漁った。知識はするすると頭に入り込み、そのうち完全すぎる教義に疑問を持ち始めた頃、母方の祖父が残した本に辿り着いたのだ。
それは手書きの一冊しかない、本ではなく、記帳。
世界の在り方に警鐘を鳴らす一つの波紋。
下らないと一蹴することも容易いが、真実を知るものにとっては驚異でしかなかったに違いない。
だからこそ――。

「そんなところで、呆けてどうしたのです?」
考えに耽る学士の耳に玲瓏たる声が触れる。
すらりとした印象の、落ち着いた色で纏められた神官服を身に纏った女性が学士を見詰めていた。浮かべる優しげな笑顔とは裏腹に女性の瞳には冷ややかな色が宿る。
学士もそれに目を細めた。
「ああ、ルカ殿」
そして名を口にする。ルカ、と呼ばれた神官たる女性は応えるように小さく会釈をし、ゆったりと学士に近づいた。
「考え事でもしていましたか?」
「いや……、強いて言うなら常識を打ち壊す事を考えていた、とでも」
学士の言葉にルカの瞳に宿る冷たさが増す。
態と逆撫でするような言葉に冷静であろうとしているのだろうが、彼女の内心は穏やかではない。
神官たちの中でもルカという女性は酷く翼竜信仰に篤い。妄信とも言えるだろう、その信仰深さに学士は度々考えを衝突させる相手だというのに呆れ半分で感心する。
どうしてそこまで信じ切れるのか。
いや、違う。何も知らない民ならともかく神官として、世界を定義付けた側の人間として、世界観を脅かすものが密やかに葬られている事をルカは知っている。
世界が通説通り存在するとしても、異分子として、世界のあり方に疑問を投げつけた者達が異教であると断罪されているのは事実。隠してはいるが存在していることだ。
「物騒なお話ですね」
「そうだろうか?」
「ええ…。このようなところでする話では無い様に思います」
緩く首は振られ窘める言葉が落とされる。
「ではどの様なところならば良いと貴殿は仰るのか」
応酬にしては純粋に口から出た疑問だった。学士の言葉に彼女もまた首を傾げた。
「意味が、」
「大体において、どの様なところで、この世界の”どこ”で話すことが出来るのか」
次に学士の口から滑り出た言葉は明確に相手を非難する意志を含む。流石にルカは眉を潜め、息を詰める。
一瞬全ての音が遮断されたような感覚。自分と相手しかいないような静寂に学士は内心笑いを零した。
「真理を追究する。それが学士としての志だというのならば、素晴らしい事です」
玲瓏たる声が淀みなく、しかし学士が為した問いへの答えには遠い言葉を紡ぐ。
「そして貴方が例えば一学士として何か仮説を立てることに、誰が妨げを致しましょう?」
「というと?」
「そのままの意味です。どうやら貴方は私達を毛嫌いしてらっしゃるようですから」
困ったように肩を竦めて見せるルカを見遣りながら、学士もまたゆるりと首を振った。
どうにも毛嫌いしているのは自分よりも相手の方だろうという思いが頭を過ぎる。或いは彼女の言葉も通りでお互いに毛嫌いしているのかもしれないと思い至った。
「ルカ殿、」
躊躇いながらも名を呼んだ矢先、ルカが何かを気にするように周囲を見渡す。
足音が近づいてきている。此処はある程度身分が証明されれば誰でも立ち入ることの出来る書庫だ。誰とも知らぬ第三者に聞かれることはお互い決して良いことではない。
「ここまで、ですね」
溜息混じりの声に、我に返った学士が去ろうとしている神官の腕を掴む。咄嗟のことに一瞬バランスを失いかけたルカの踵が一際高い音を立てた。蹈鞴を踏んだ形だった。
「何をするんですか」
「少しだけ良いだろうか?」
驚きと若干の不機嫌さが混じった口調に至極マイペースなままの声が重なる。
ただ捕まれた腕の力が少し強まったのを感じて、ルカは頷いた。





「貴殿は神官の位も高い。だから一度問うてみたいことがあった」
「何でしょう?」
「本当に世界は、永遠に約束された豊穣の上に立っているのか。そして我々は本当に選ばれたものなのか」
「……」
学士の真摯な響きを持った言葉に沈黙が返る。考え倦ねているのか、ルカは柳眉に僅かに皺を寄せて首を傾けた。
「貴殿の考えを聞かせて欲しい」
重ねられた言葉は何故か必死さを含んでさえいる。それを漠然とではあるが感じ取りルカは笑みを零した。俯き加減に浮かべた笑みは学士には見えない。
「私の考えですか」
「そうだ」
「そうですね。神官という立場でなら、私は……貴方の問いにそうであると答えます」
永遠に約束された豊穣の上に成り立っている。
我々は竜という神に選ばれて、この豊かさの恩恵を受けている。
帝国は、帝国に使える神官たちは、民衆にそう教義を示した。理として一つの定義を与えた。
「では貴殿個人としては?」
「私個人の考えは」
ルカは顔を上げて学士の視線を真っ向から絡め取る。嫣然と微笑を浮かべた彼女の唇が紡いだ言葉は、彼女自身には至極当然のことであり学士には理解し難いものであった。
「私個人に、そのような考えはありません」
「……なに?」
理解が追いつかないと困惑を滲ませる声が落ちる。
「私は神官です。私は私である前に竜の信仰を司る神官なのです。貴方の言う個人の考えなど持ち得ません」
「それは」
「貴方が何を仰りたいのか、私には分かりかねます。どうしてそこまで世界の考えを変えたいのかも分かりません」
「貴殿は……!」
「貴方は、ただ自分の考えに囚われ、世界を受け入れきれていないだけなのです」
言い切った言葉に学士がゆるりと頭を振った。ルカの言葉を否定するかのように、自分の居場所を確かめるように。
学士の丁寧に纏められた髪が肩から一筋滑り落ちる。
自分よりも身長の高い学士の端整とも言える顔を見ながら笑みを貼り付けたままだったルカは、学士の脇に抱えられた蔵書に目を向ける。何冊かに混じって本ではないものがあった。
つとそれに無意識に手を伸ばすと、触れる前に学士が身を引く。
「世界は自浄作用を失ってしまった。浄化の後、豊穣は約束される。破壊と繁栄は繋がり円環となっていた世界から、無理矢理破壊と浄化を取り上げ、ただ豊穣の力だけを繋ぎとめることの何が世界の正しい在り方か」
早口に吐き出された言葉は、学士が祖父から引き継いだ書物とそれを元に数々の文献を調べ上げていって辿り着いた一つの真実。
本来世界には自浄作用があり、それは破壊を伴いつつも先に繁栄と豊穣を与えた。
破壊の後には再生が、繁栄の後には衰退が。光と闇の関係のように一つの輪のように繋がり存在していた世界。
嘗て人が繁栄し、栄華を極めた頃には世界は衰退していた。衰退の後、破滅は訪れ、やがて大地は豊穣を取り戻す。
破滅と破壊を司っていた大いなる力こそ”竜”の存在であった筈なのだ。争いを繰り返し疲弊する国力も人も、争いの中で汚染された大地も大気も、等しく与えられる破滅の後に正しくは再生される筈だった。
地位も何も関係なく全ては一度零に戻り、生き延びた人々が新たに浄化された大地で生きてゆくことが本来の姿だった。
「何を言うのかと思ったら。貴方は妄想に取り憑かれているのです」
「世界の自浄作用を無理矢理歪め、間違った形で豊穣だけを絞り取り、仮初の安寧で全てを誤魔化すことは誤りではないのか」
「……貴方は」
「我々は本来の世界から自分達の都合の良い力だけを奪い、”竜”という大いなる存在の破壊から繋がる筈の豊穣を無理矢理引き出し、真実を歪め、選ばれたのだと、だからこそ平穏は永遠に続くのだと教え込む」
「何を言いたいのです?」
「帝国の、貴殿らの言う永遠は脆く危うい中成り立っている。歪みで作られた世界はいつか壊れてしまう」
「馬鹿なことを言うのですね」
「そうだろうか」
明らかに不機嫌な声で返したルカにもう笑みは無い。
「今一度問わせて貰いたい」
ルカからもう一歩距離を取った学士が問いを投げつける。
「貴殿らの口にする永遠とは。永遠の繁栄とは、それは永遠を称した、世界を歪め、世界から逃れた堕落ではないのか?」
遠回しの言葉は、しかし的確でもあった。
はっと息を飲み込んだ小さな音だけが学士に届き、俯いてしまったルカの顔は見えず、応えを待つ時間の沈黙が耳に痛い。
「堕落…? 貴方の考えは本当に理解し難い。もしそうだとするならば、そう言うのならば、等しく全てがそうなのでしょう」
ゆっくりと顔を上げたルカの顔には表情らしい表情が浮かばない。
「どう辿り着いた真実なのか分かりません。ただ貴方は国の奥深くに眠っている竜に関する記録を読んでいるのですね」
帝国が今のように栄えることとなった発端。
”竜”という大いなる存在を大地に繋ぎとめ、豊穣の力を引き出す仕組みを作った時代に書き記された筆者不明の手記。
学士は確かに厳重に人目につかぬように保管されていたそれを見ている。
「ならば、貴方は分かっている筈です。等しく私達は恩恵を受けている。貴方の言う歪んだ世界で恩恵を」
「……ルカ殿」
「恩恵を受けているものが、この世界で生きるものが、異議を唱える事は出来ない」

――だって、私も貴方もその歪んだ上で、恩恵に肖り生きている。

続いた言葉に眉を寄せたのは学士の方だ。
「誰も異を唱えることなど出来はしない」
淡々と言い切られた言葉が静寂の間に消えていく。そうだろうかという思いが学士の頭に浮かんでは消え、虚しく宙を掻くような不思議な感覚が支配した。
学士にとって確証の欲しかった世界の在り方に対する答えを、神官である彼女は認めた。教義でいう”竜”の存在は決して真実の姿ではない。明確に口に出してはいないが先ほどの答えは肯定と同じである。
求め続けていた答えの一つを確かに手元に引き寄せたというのに、気持ちは暗い場所に引きずり込まれていくようだ。
「歌姫ならば?」
「……え?」
「もし、異を唱えることが出来る者が居るのだとするならば、それはその時たった一人、命を賭けて歪んだ世界の安定を保ち続ける歌姫が、そうなのだろうと思ったまで」
歌姫は”竜”に歌を捧げる尊い役目を担った存在。歌によって”竜”を繋ぎ止める、作られた絡繰りの支柱。
帝国が出来てから現在まで、必ず唯一をもって存在し、もう二度と戻れぬことを知りながらも歪んだ世界を支えてきた。
歌姫に選ばれれば戻ることは出来ない。戻った例など一つとして存在していない。
恩恵ではなく、恩恵のために犠牲となる存在ならば世界に異を唱えることが出来るのだろうか。
「歌姫たちが異を唱えることはありません」
「何故?」
「彼女たちは自ら進んで”竜”に祈りと歌を捧げる存在となるのですから」
言葉は一端途切れた。
「異論など無いに決まっているでしょう?」
「……ルカ殿」
「それよりも私は悲しく思います。貴方は信頼を得たからこそ、世界の本来の姿に関する手記を見ることが叶ったはず。なのに、このように今の世界の常識を覆すことばかりを考えているなど。貴方の叔父上は悲しまれるでしょうね」
その言葉に学士は笑うしかない。
幸か不幸か。これだけ世界の在り方を追求しても異端と断罪されず今日まで過ごしてこれたのは、偏にルカの言う言葉の通りだ。権力を握る側に属さなければ、あっという間に今まで異端者として断罪されてきた祖父を含めた学者たちと同じ道を辿っただろう。
「……必然なのやもしれぬ」
小さく呟いた言葉に訝しげな視線を返されて、学士は笑う。
本来あるべき姿からかけ離れた恵みは、既に崩壊を始めている。歪んだ秩序に静かに亀裂が入り込んでいる確信があった。確証はないが必然があるとするなら、自分という存在もまた世界の在り方に異を唱えながらも抹消出来ぬ初の事例として、証明しているようにも思えるのだ。
世界は緩やかに、元よりも深刻な崩壊に向かっている。
「施政者側にありながら、貴方はあくまでそれを貫くというのですね」
学士の笑みの真意を読み取ったか、ルカが諦めを含む口調で頭を振る。
「死にたいのですか?」
それは悪意も何もない疑問だけで出来上がった問いに聞こえた。
「何れの者が好きで死のうと思うだろうか? 我も今まで世界を問うてきた者たちと同じだ」
「……カムイ様、いつか後悔します」
告げる声は僅かに震えて、目を伏せたルカが浮かべた表情は複雑で学士には読み取れない。
「では、この選択が間違いではなかったと思えるよう生きるとしよう」
「どうぞ、お好きに」
崩壊は静かに音もなく迫る。自分が世界にとって些細であっても初めての事例となりえるなら、世界が変革か崩壊に進む兆しであろう。
世界の有り方は正しいのか、誤りであるのか。答えは何れ、自然と明確な結果として弾き出される。そう遠くないうちに。
歪みは大きくなり、軋んだ世界が音無き音を上げ始めているのを二人は心の端で感じ取っていた。





- end -